旧制延岡中学校  昭和十八年~ 

岩脇駅(南日向駅)から日豊本線で南延岡駅までの汽車通学でした。南延岡駅から延中まで約三キロ余りの通学で入学第一日目には新入生を先頭に隊列を組んで行進しました。時々落後する新入生がいると上級生が竹刀で新入生のお尻を叩いておりました。列が乱れると全員駆け足をさせられたものでした。学校に着くまでに愛宕山の下で止められて上級生から説教があり、自分たちも一年生の時に

「俺たちも殴られたのでお前たちを殴る」というわけのわからない時代でした。

そんな中で戦争が激しくなり、我々も動員として三月一日より新田原の飛行場に行くことになりました。朝は五時半に宿舎の前に整列して沖縄の戦場に向かう特攻隊の飛行機を見送る毎日でした。後日の話で、飛行機は鹿児島の知覧空港で最後の特攻機に乗り換え沖縄へ向かって飛び立ったそうです。

ところで、動員された内容は空港内の飛行機を近くの森の中に退避させるための道路の周りの畑と同じ様な草を一本ずつ植えて上空の飛行機から見て畑と道路の区別がつかないようにする作業でした。他の作業はこれと言ってなかったように思います。

新田原の宿舎に入って一日目の食事の量が兵隊さんと同じで(多くて)びっくりしました。何しろ毎日の食事は今から思えば配給米の少量でしたから、二日目から炊事の兵隊さんが我々の日常生活の食事がわかって急に少なくなりガッカリしました。仕事の割に量は減らされましたが、我が家の食事よりおいしかったことを思い出します。

新田原に滞在したのは二週間ぐらいでしたが、空襲にも遭わずにみんな元気で我が家に帰ることができました。

我々の後は延岡商業高校の生徒さんと交代でした。我々が帰った後三月十八日に米軍の艦隊が九州に接近したという報道があり、その日のうちに南九州は大空襲に遭いました。その時に新田原の空港も爆撃され生徒たちも怖い目にあったということを後で聞きました。

同じ日、日向の飛行場を中心に財光寺も空襲があり、アメリカのグラマンと一機のゼロ戦の空中戦を日向市内平岩地区の多くの人々が実際に見ることになりました。米軍のグラマンの二機がゼロ戦の一機を追跡するのを見て大変悔しく思ったことです。

この空襲で空港の被害がどれくらいあったのか秘密にされて我々にはまったく知らされなかったが、後でわかったことは、今の財光寺往還の道路には爆撃の後がいくつもできており、その穴の大きさは小さい家が一軒入るほどであった様に思います。穴の底には不発弾が転がっているのも見ました。危険な状況を見ながら岩脇から日向まで歩いて日向駅から南延岡の延中に通いました。空襲であちこちの鉄橋は落とされて日豊本線は不通になりました。汽車は延岡から細島までしか通っていませんでした。(今、細島線は廃線になっています。)

ある時、下校時、日豊線が不通の為、日向市内より歩いて帰るのに一番近いのは鉄道の枕木をふんでかえるのが最も早かったのでそのようにして歩いていると、飛行場のごく近くで米軍のグラマンがプロペラの音を小さくして飛行場をめがけて急降下しながら襲ってきました。それで、飛行場から高射砲や機関銃で一斉に応戦が始まりました。ものすごい音と地響きで怖くて鉄道の側溝にみんなで伏せたことを思い出します。短い時間の戦いでしたが、自分たちには長い戦いのように感じました。本当の実戦を経験したのはこれが初めてです。そのあとも空襲が続き、ある日、岩脇駅に武器を積んだ貨物列車が停車中のことです。ちょうどその時に米軍の飛行機が飛来し、銃撃してきたのです。音がすごく大きくて、防空壕の内でみんな震えておりました。銃撃が終わってすぐに駅に駆けつけると機関車が被弾して蒸気が激しく噴き出ていました。機関士は避難して無事でした。列車に積んであった武器はたくさんの弾薬だったそうで、もしそれが被弾していたら大爆発を起こして駅も駅周辺もすべて吹っ飛んでいたであろうということでした。考えてみるとぞっとする話です。

私は銃撃が終わってすぐ駅まで走っていきました。その頃は出征で男手がなく、駅の仕事はすべてたった一人の十八歳ぐらいの女性に任されていましたので、その人は銃撃の間,机の下に隠れておりましたそうで、目の前を赤井火の玉が次々飛んでいくのを見て青くなっていました。大変怖かったそうです。

 戦争がいよいよ激しくなって延岡の学校まで通うのが困難になり、学校は分散され、我々は塩見小学校に通うことになりました。我々中学生は午後に授業を受けることになり、遠いところでしたが終戦まで三か月くらいみんな一緒に歩いて通った記憶があります。

塩見小学校に通い始めた頃、十号線の平岩小学校入口の所に朝八時頃集合して五、六人で出発、秋留を通り赤岩川の上流に着くと小さなタンポリがあって、そこで又、水浴びをしたあと、お弁当を食べて秋留と山の田の山を越えて一時前後に塩見小学校に到着しておりました。

授業は一時から始まるのですが、とにかく疲れて眠くてたまらなくても勉強はしました。下校はみんなで又山越えをして帰ったものです。帰宅は夜八時ごろになりました。

いよいよ終戦になり、毎日毎日の空爆もおさまり、穏やかな日々が戻ってきましたが、食料や日用品がなくて大変な時代でした。

※写真はイメージです

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