私は子供の時から飛行機が大好きで財光寺の飛行場によく行って、半日か一日中でもぼんやり飛行機が上昇したり着陸するのを(タッチアンドゴー)飽きもせず眺めておりました。時々若い飛行士の方が寄ってきて「お前に所には姉ちゃんは居るか?」と尋ねておりました。そんな時は「姉さんが二人居る」と言うと、「こっちに来い。」と言って飛行機がよく見えるところで見学ができました。その頃、財光寺の飛行場は佐伯航空隊の前戦基地のようでした。戦争が激しくなると、大学在学中の学生さんが飛行士になることを目指しておりました。ある日、学徒兵の一人が練習機で着陸中、旧富高小学校の運動場東南隅のセンダンの大きな木に引っかかったことがあり、大騒ぎになったこともありました。学徒兵は無傷だったとのことです。ある日、練習機が飛行場の東の砂浜に不時着したことがあり、飛行機のエンジンがはずれ、砂浜の上をピョンピョン飛んだそうで近くで仕事をしていた人達がびっくりして逃げ回ったという話が大分、大げさに広がったこともありました。飛行士の方は無事だったそうです。いろいろと話は尽きません。汽車通しておりますと、飛行場の手前より車掌さんが東側の鎧戸を下ろすように言われて、飛行場が見えなくしておりました。飛行場も幾度となく爆撃されました。その度、財光寺の往還の道に大きな穴ができておりました。穴の大きさは大きいのは家が一軒入るくらいありました。その穴の底にはところどころに不発弾が1発ずつ転がっているのも見ました。
住民の方々は早い時期に積極的に避難されておられたので、被害はなかったようです。財光寺往還は無人でした。お家の中にどの家もたくさん飛行機の部品が置いてありました。もし、いたずらに大事な部品等に触れたりしたら、たちどころに憲兵につかまって激しい罰が課せられたことでしょう。 そんな厳しい時代でしたから、好奇心の強い年頃でしたが我々は見るだけで触れたりすることはありませんでした。米軍の空襲は、天気の良い日の日中にある時は確実に飛行場を中心に行われましたが、最も怖かったのは夜間遅いときとか、雨の日は目標がはっきりしていないので平岩にも爆弾が落とされるので被害が出るのではないかと大変心配した記憶があります。いつも考えることは運を天に任せる以外どうすることもできないとおもっておりました。














